プラム日記

日記です

今週はダニエル書

昨日のダニエル書の3日目で講師の高橋先生がデスペンせーション主義は30年前ならいざ知らず、今では評価な~し・・のような感じの話をちらりとしてました。この30年の変遷を今日教わるのかしらん。

しかし大淫婦とは一方でキリストの信仰告白をさせながら平然と偶像を拝ませる偽教師や偽教会としか理解できないのですが。

事実信仰神学(実践?)・聖書組織歴史実践


福音総合理解も始まり~。
事実は永遠のいのちを知ってそれに与かること。伝道宣教で信仰は愛すること、愛し合うこと。神学は更なる交わりと誤らないための学び。最後は何だっけ。
人の内に聖霊が在るならば(イエス様と共に居るならば)互いに永遠のいのちにある事を覚えて喜びの交わりが得られますね。
講師の先生があと5年くらいの余命と言われた先には御国での永遠のいのちの話の続きが有ったのでしょうが後日のお楽しみになったようです。

 

あ~、お馬鹿。事実・信仰・神学・倫理でした。物覚えが悪くなってますね。

講義がピリピ書で始まりました


ピリピは喜びの書であると昨日始めて知りました。いやあ先週入学したての神学生ですから。明後日までに通読して来いというので読みました。1:15のところで涙が出てきました。多分講師の先生もここは効いたと思います。ねたみと闘争心というのも人間の罪の形ですね。一つ霊によって立ち、一つ心になって、同じ思い、同じ心で共に・・・。そうして兄弟の喜びを満たす・・・。そしてイエス様に倣う謙遜と利己に勝る利他の精神。
400字のレポートはこの喜びの書を最初の講義に選定された学校と先生を褒め讃える内容に決定。

私たちは何を信じるのか2

前に一度書いたことをちょっと整理してみようと思います。昨日からツイッターなるものを始めました。誰かをフォローするとそのフォローした人がフォローしている人たちをお勧めの皆様という感じで案内する機能がありました。そこで少しばかりお勧めの方を覗いて見ました。現役の牧師さんとかも大勢いらしたのですがその内容に気が滅入ってしまうことがたくさん有りました。聖書の無謬性が云々とかではなく、復活の有無のレベルで復活の事実を受け入れられない信徒ではなく牧師さんが散見されたのには驚きました。そしてその牧師さんたちは例外なく救いに与かっている様には見受けられませんでした。信仰の確信を得ているとは思えませんでした。こう私が言うことを人を裁いていると思われるかも知れませんがそれはそれで構いません。一回とは言わずに最後までニネベの町をうろつき廻っても構わないからです。しかしニネベの町はニネベの人がしてもらうのが良いですね。ニネベの町が救われても私は呟くことなどないでしょうし、それは神様が御存知であるからです。
私たち(クリスチャン)は何(神様?救い?十字架?イエス様?復活?)を信じているのか。明快明確に言うならばそれは
「神様が私たちを愛していること」を信じているのです。神様は造り主で造られたものを愛されているお方であって永遠に生きる命です。人はその神様に背き隠れて離れてしまったのですが、それでも人を御自分と共に永遠に生きるものとするために人の罪や呪いの一切を共にしてご自身の命と引換えに死から買い戻してくれました。神様が私たちを愛しているからイエス様の血肉を代価として死から買い取ってくれたというわけです。つまりイエス様の御わざは私たちが神様に愛されている印であって、御わざを信じる私たちは「神様が私たちを愛していること」を知りもして信じているのです。
例えば父母などの親というものは普通に自分を愛してくれているものでしょうが、人に恋人が出来たとしてその恋人が本当に自分のことを愛しているのか、何によって確信出来るのでしょうか。神様は文字通りご自身の全てを以って人を愛されるお方ですが、人は恋人に自分が愛されていると確信した時はどうでしょうか。喜びで満たされて嬉しくもあり天にも昇る心地になるのではないですか。(神様に愛されていると確信した時には本当に天に昇ることになるのですが)その喜びが無いというのはどうしたことでしょう・・。真に残酷な物言いをしますが喜びが無いということは愛されているという確信が無いのです。つまり神が(恋人が)自分を愛していることを信じていないのです。ここで恋人はもしかしたら自分の他に誰かを愛しているかも知れないので疑いを生じることも有るでしょうが、神様の十字架の御わざは全ての人に及んでいるため喜びが無いのはすなわち神様に愛されていることを信じていないということです。
このこと・・すなわち自身が信じているのか或いは信じていないのかは私は明確にしたほうが良いと思うのです。それには理由が有ります。それはイエス様が救い主であると告白することは人の思いから出ることではないからです。イエス様が救い主であると認めて告白することは聖霊の働きによるものだからです。このイエス様を救い主と認めて告白することは自分とイエス様との関係を成立させることなのですがその関係は互いに愛し合う(もちろんイエス様は無条件に私たちを愛してくださっていますから)ものですから私たちが信じると告白することはイエス様を愛するということと同じことですね。ヨハネ書の最後の方でイエス様が3度ペテロに私を愛するかとの問いにペテロは私があなたを愛しているのは主ご自身が御存知ですと答え続けました。聖霊がペテロに告白させているのですから謙遜を身に付けて身を低くしたペテロの答えはイエス様を3度知らないと隠れ離れたことの呪いを解くに充分でした。この様な訳で十字架と復活を一度告白しながら今は復活の真偽が分からないとする人にはイエス様ご自身の「私を愛するか、私を信じるか」との直接の問い掛けを期待するほかは無いと思うからです。
別に改めて知性や理性に関して書こうかと思います。

携挙を待ち望むことについて気が付いたことがあります

携挙はそれがいつ起こるか分からないものです。(聖書にありました)だから固い救いの確信が有ればそれは神様におまかせと言う感じでわざわざ待ち望むもんでも無かろうにとも漠と思っていました。昨日ラザロの蘇えりのとこの説教を聴きました。ラザロの死と蘇えりは神様が死に打ち勝つ栄光が表れるためであるとの説き明かしです。

よく考えてみたら携挙は死を通り越して死を味わずに死を無視して、もしかしたら陰府に行ったり見ることもなく、もちろん痛くも痒くもなくリニアモーターカーのような快適さで御国に一直線であるものでしたね。

そうであるならその時が早く来て欲しいものですが、大勢の人が取り残されてしまわないように大至急に宣教をし尽くさなければいけませんね。

ラザロの死に際してイエス様が2度もお怒りになりましたよね。あれは死に対しての怒りですね。北斗の拳のようにボワーっと怒りの火を燃やしてその胸の内で”お前は既に死んでいる(死に対して)”という感じだったのだと思います。

長血の女の癒しとは

金太郎飴という言葉を思い出してしまいました。聖書はどこを切っても金太郎飴のようだと言われる先生がいらっしゃいました。その意味は聖書の記事は全てが一貫しており、イエス様が救い主であり神様の愛の姿であることの証しの他には何も出てこないという意味です。

長血の女の癒しとは親しいラザロが死んでしまってそこへ駆けつけようとイエス様が急いでいた時のことでした。大勢の群集に囲まれてもみくちゃの状態であったのでしょう。そのような場面でもイエス様は長血を患い汚れているとされ忌み嫌われる女性を慈しみ愛され共に御国に在ろうとされていました。イエス様は何故立ち止まり癒された女性に呼びかけられたのでしょうか。それは彼女を言葉で祝福されることに他なりません。

エス様が御国にいらっしゃるということ、御父がイエス様を遣わすほどに我々を愛して慈しまれていることを聖書の全てに証しされています。本当にその様は金太郎飴のようです。

天国では性別があるのか

詩篇113篇9節には子供を産まない女も多くの子供たちの喜ばしい母になるとあります。すなわち御国では女性は完全な女性としての体と命を得て、嫁がず娶らないにも拘わらず子供のいる家庭が与えられると約束されています。

天国にも性別は有りそうですね。